備忘録

丸山隆平さん主演舞台『マクベス』雑記

丸山隆平さん主演舞台『マクベス』7月7日19時公演観劇してきました。

台風一号の発生により東京行き自体が危ぶまれたりもしながらの0泊2日弾丸遠征だったこともあり、二時間半の公演が本当に夢のような時間でした。

しかし悲しい哉、人間の記憶は実に曖昧で不確かで信用ならないもの。この夢のような時間を七夕泡沫の夢としないためにも、拙いながらもちょっときちっと感想まとめておこうかなと思いブログを立ち上げてみました。諄くて頭のわるそうな文章なので人に読ませるようなものではないのですが、備忘録として。

 

観劇前に河合祥一郎さん訳の戯曲を二回ほど読んでいったので、良くも悪くも自ずと自分なりのマクベス像なるものが出来ていたのだけど、丸山くん演じるマクベスはその何百倍も繊細で弱くてでも根本はやさしくてすごく人間味に溢れていたように感じました。

冒頭「こんな、良いとも悪いとも言える日は初めてだ」と放つときの呆然としたいでたちや、「もう戦いは終わったんだ」と戦いを拒む場面がすごく印象的で、ここは原作を読んだときには感じなかったことだけど、優秀な武将で幾多の戦を経験しながらも、いや経験しているからこそ人を殺めることに罪悪感を持っているのが伝わってきて。現代では一般的な感覚だけど、こういう血生臭い戦続きの時代でこういう感覚持つのってやっぱりすごく繊細な心の持ち主だったから故なのではと思ったし、謀反だってギリギリまで渋っていたくらいだから武将にしては小心者なのかもしれないけど根は優しいし悪い人間じゃないんだよなあ、と。※1 あと単純にバンクォーと肩を組んで笑いあったりしてるところを見て、ああマクベスってこんな風に笑うんだ…と一気に自分の中のマクベスというキャラクターに血が通った感じがしました。

文体が堅いっていうのと己の読解力・想像力の乏しさ故、原作を読んで感じたマクベスの印象に「優しい」「愛おしい」はなかったから、”丸山隆平にしか演じられないマクベスのことを「マルベス」”と謳っていたけれど、ああマルベスってこういうことなんだな、という片鱗をまずこの冒頭のシーンで感じました。

某誌の対談で、初めにマクベス像を作ってそれに沿って演じるのではなく、稽古の中で生まれた感情や鈴木さんからの指摘等から発見したことを積み重ねて全体を作って行けたら、と言っていたけど、そういう風にして生まれたのがこのマクベスだったんだなぁ、まるちゃんの繊細で優しい感性の中で捉えられたからこそのキャラクターだったんだなぁというのは作中通して痛いほどよくわかった気がします。

あとは、マクベスって雄々しい振る舞いする割に精神が伴っていないというか雄々しさと女々しさが極端に共存してるところがあるけど、まるちゃん自体顔の造形や骨格がすごく男らしいのに内なる少女が溢れだして仕草が女性的っぽくなるところもあるからそういう点でもすごく嵌っていたようにも感じます。(実際、マルベスビジュアル終始とんでもなくかっこよかったんだけどまるちゃんの身体火照ると発動されるナチュラルチークは通常運営しててかわいらしくもありました)

 

そんな”丸山くんのフィルターを通したマクベス”=マルベス、まるちゃんとは別人なんだけどでもダブって見える瞬間が何回もあって、この激重丸山担の私はもう過度に感情移入するしかなくなる訳ですよ。だから、夫人と共に狂い転落していく姿がひたすら哀しかった。散々暴君暴君言われても冷酷と感じるより憐みの感情ばかり生まれるから、段々と孤立無援、四面楚歌になってくさまは本当にかわいそうで。狂気じみた振る舞いがもう痛々しくて、早く楽にしてあげたい、という気持ちでいっぱいでした。

でも、いざ死んでしまうとそれはそれでまたすごく悲しい気持ちになるんですね。

マクダフに敗れて晒首にされる場面、まあ自担の生首を見るなんて人形と分かっていてもあまり気持ちのいいものではなかったのだけど、そういうのを抜きにしてもとても胸の痛む一幕でした。マクベスが夫人の死に際して吐いた台詞にもあったようにマクベスもまた「いつかは死ななくてはならなかった」人間だったと頭では理解できます。理解はできるし事実そうなんだろうしなんなら早く楽にしてあげてとまで思っていたにも関わらず、いざ打ち取られ晒された首を見て「いつかは死ななくてはならなかった」なんて思えなかったんだよなぁ。

感情移入のし過ぎかもしれないけど、夫人とともに転落していった過程を見てきたというのもあるし、先にも述べたようにマクベスは根っからの悪人ではなかったし、マクベスだけがこの作品の世界の中の「悪」だったとは思えなくて。

マクベスの心の弱さが自身を破滅に向かわせた元凶であり、この作品における「悪」であると言えると思うのだけど、だとしたらそれはきっと作中のどの登場人物にも、外から観劇している私たちにも内在しているものであって、そんな中でただひとりマクベスだけが生首になり晒しあげられている状況がいたたまれなかったというか・・・

うまく表現できませんが、野心に唆され主君を殺し王位に就くも罪の重圧に耐えきれず暴政を振るい復讐に倒れる、なんて自業自得の生涯ともとれるけど、こんな救いようのない生きざまなのにどこか擁護したくなるのはマクベスの心の弱さに少なからず共感する部分があるからで、「自業自得」の一言で一蹴出来ず、この物語がシェイクスピアの4大”悲劇”として扱われている所以もこの辺りにあるんじゃないかな、なんてことも思ったりしました。

 

さて、私の中でなかなかこの舞台の感想が帰結しなかった要因にロスの存在があります。

原作では然程存在感のない役柄ですが、今作においてはすごい。バンクォーの暗殺やマクダフの妻子の惨殺に携わりながらも、何事もなかったかのようにしれっと物語に帰ってくるは寝返るは。舞台の中盤から、原作的にありえないけど、なんかもう最終的にマクベス倒して王になるのはこいつなんじゃないかってくらいの黒幕感が気になってしょうがなくて。それはもう悪事を重ねていくマクベスの惨さすら霞むほど。

パンフを読むと、策略家でマクベスに尽くすもなかなか報われず最終的に寝返る、とあるんだけど、マクベスも夫人も野心にかられ悪へと手を染めながらも後戻りのできない己の犯した罪の重圧でこんなにも苦しみ狂っていったというのに、そういった葛藤もなく終始淡々としているさまはどうも違和感を拭えませんでした。(←ここの描写深く掘り下げてもオリジナルからそれてしまいそうだししょうがなかったのかもしれないけど。)

でもこのロスの不穏な動きが作品の時代背景の不穏さをそのまま表していたようにも思うし、また彼と対照的に罪の重さと心の弱さに蝕まれ病みながらも一貫して「男らしさ」※2を自分なりに追及していくマクベスの不器用ながらも愛おしい生きざまが強調されていたようにも思います。

 

あとは、私舞台観劇自体が初めての経験だったのでその点でもいろいろ感激することがありました。

例えば王の暗殺前の短剣の幻覚が見えるシーン。映画とか映像作品だったらCGを駆使して表現するんだろうけど、そういうデジタルな手法じゃなくあくまで演者と光る短剣だけで表現していて、でもすごく立体的で、例えるなら、仮装大賞の有名な卓球のやつ見たときの感動と似てるというか…(これです↓)

 なんかうまく言えないけど、とにかくデジタルの時代だけど演出の工夫次第で演者と小道具・大道具だけでこれだけの表現が出来るんだなあとものすごく感心したし、舞台の、生の面白みってこういうところにもあるんだろうなと感じた。

(あとここのまるちゃんの立ち振る舞いすごく美しかったしこの複雑な動きいっぱい稽古したんだろうなあ…と涙ぐましくもあってすごく好きなシーンだった)

                                                              

とまあ、おそらく本当に必要以上にマクベスに感情移入してかなり偏った観方をしいてしまったような気がしなくもないのですが、前述もしたけどそれは丸山担としての自然の理。おかげで「マクベス」という人物を、そして作品をより深く理解するきっかけを得られたような気がします。

当時の世相やジェンダー、人間の業の深さや心の脆い部分等々いろんな要素が盛り込まれた原作とその舞台表現とで二重に奥深くて、潜ろうと思えば本当にどこまでも深く潜れるような面白い作品であることがこうしてまとめてみてすごくよくわかったし、これを契機に次はいろんな「マクベス」を観てみたいなぁとかほかのシェイクスピア作品も触れてみようかなとか、とにかくまた新しい興味の扉が開きそうで、そんな作品の世界に丸山くんを介して誘ってもらえたこと、本当に嬉しく思います。

まるちゃん、本当にありがとう!七夕の夜、最高に美しくてかっこよかったあの姿、決して忘れません。

映像化に僅かな希望を託しつつ、マクベスカンパニーの皆さまが千秋楽まで無事に走り抜けられますことお祈り申し上げ、結びといたします。

 

  

追記

※1 パンフの鈴木さんのインタビューにマクベスPTSDだったのでは、という記述があったのでふむふむと思い少し調べてみました。一概には言えないのだろうけどPTSDになりやすい人の特徴として、

・自分の悩みや弱さを人には見せない人

・明るく前向きに考える人

・自立心が強く人に頼らない人

・基本的にまじめな性格の人

・完璧主義的な性格を持つ人

・真面目を要求される環境や立場にいる人

・自分より他人を大切にし、自分が弱いことが許せない人

というような例が挙げられていて、酷い事件にあった時も人に頼らず自分の中で解決しようとする「心の強い人」に多く見られる、との記述もありました。

(http://kokorocare.client.jp/page8.htmlより引用)

マクベスは繊細で気弱な性格を自覚しながらも、しているから余計に「男らしさ」に固執して自分を奮い立たせて優秀な軍人と言わしめるまでの地位に上り詰めることができた半面、謀反を起こす前もう既に「心の強い人」「男」であるのが限界だったのかもしれません。今作の演出では、その限界から生じた心の隙から魔物がマクベスの前に姿を現し、翻弄し転落させていった、という風にも解釈が出来ると思います。

 

※2「男らしさ」という表現ですが、夫婦共々なぜここまで「男らしさ」に執着するのか疑問だったのですが、こちらの記事(http://yuzo-goroku.jugem.jp/?eid=3932)の指摘から、二人に子供がいなかったことが起因しているのではないかという解釈ができ、スッと腑に落ちました。この記事にあるようないがみ合った感情が今作のあのラブラブ夫婦にあったような気はしませんが、子供が出来ないことの後ろめたさを互いに抱いていてそれを埋めるように「男らしさ」を追及していたと考えると、またひとつ胸にくるものがあります…。

また、この夫婦を巡る「男らしさ」について、こちらの論文(http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/bg/file/218/20091021211334/BG20021000002.pdf)では、「男らしさ」や「野心」に拍車をかける役目であった夫人が、マクベスがいざ夫人の言う「男らしさ」を体現したとき、その役目を失ってしまう、というように「男らしさ」を軸にパワーバランスの逆転、夫婦のすれ違いを生じさせてしまっていることを指摘しています。

しかし、今作においては「男らしさ」という軸がまた違った形で機能していたようにも思えます。今作におけるマクベス夫妻はとにかくラブラブで、マクベスが男になりたかったのも自分の為でもあるけど夫人の為でもあったし、夫人もまた原作ほどのエゴでマクベスに「男らしさ」を突き付けてくるのではなく夫を愛するが故にという感が強調されていました。故に鈴木裕美版マクベスにおける「男らしさ」とはこの夫婦の夢であり、子供のいない夫婦の子供のような概念だったのかなとも解釈できると思います。

そういった点を考慮して思い返すと、マクダフが女から生まれたのではないと告げられ、夫人の死後後唯一妄信していた魔物の予言にすら縋れなくなったマクベスが夫人の幻影を見つけ、見つめあうシーンは、離れ離れになっていた2人のこころが再び通いあったようにも見え、その後もう何も持たないマクベスが身一つでマクダフに挑む姿はかつての優秀な将軍としてのマクベスが戻ってきたようにも、これまででいちばん「男らしい」姿だったようにも思えます。

束の間でしたが、最後の最後にマクベスの誇り高い姿を見ることができたことが、夫婦の夢があるべき姿で形になったことが、この救いようのない物語の唯一の光だったのではないでしょうか。

 

 

結び結び詐欺しましたが、これで本当に終わりです。

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おやすみ、マクベス